妄言録
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乃木口正

Author:乃木口正
『妄人社』というサークルで、
小説を書いている乃木口正のブログ。

日々のあれこれ、創作のあれこれについて、
思ったり思わなかったりしたことを書いてきます。



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ツッコミ
全然続いてないじゃんっ!!

という、ツッコミだけ置いておく。

いや、そのうち書きます。生きてます。
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誤解
書き手、読み手ともに誤解されている気がする事柄があるので、少し記したいと思う。
それは、「ファンタジー」よりも「ミステリ」のほうが、書くのに敷居が高く、難しいという誤解。
確かに、本格ミステリはロジカルさが求められることが多く、敷居は高いのかもしれない。しかし、ファンタジーと比べて、執筆が難しいかといえば、決してそのようなことはない。むしろ、私はファンタジーのほうが苦労する点が多く、難しいと思っている。
ロジックというと難しく感じてしまうのだろうが、平たく言ってしまえば、矛盾がないかということである。なので、現実の組み合わせを間違えなければ、極論ミステリは誰にでも書ける。
しかし、ファンタジーは違う。ファンタジーは存在しない、架空の世界を描く。街並、動物、道具、文化・文明、そして価値観。これらを一から構築していかなければならない。
ファンタジーは自由に書けると思われがちだが、思いつくままに書いていたら、とんでもない世界になってしまう。例えば、剣などの武具が安価で買えるに、その他の鉄鋼技術は低かったり(※①)、識字率が高いのに(※②)、学校もしくはそれに類するものが存在しない。
揚げ足取りに聞こえるかもしれないが、こうした細かな点が積み重なり、文化や文明、そして登場人物たちの価値観となる。なので、存在しない世界だからといって、思い付きで書けるわけではない。むしろ、下手な一文で世界を崩壊させてしまう可能性さえ、有している。ファンタジーの文章はデリケートなのだ。
「優れたファンタジーは歴史小説だ」というのは友人の言だが、私もそう思う。時代にそぐわないものを歴史小説で書くわけにはいかない。ファンタジーも同じだ。
しかし、現代ミステリは現実にあるものを描くのだから、神経を尖らせる必要もない。自然主義が如く、ありのままを描けばよい。

さて、早足ではあったが、これでもミステリは敷居が高く、難しいと思うだろうか。ファンタジーを書いている皆さん。また、書こうと考えている皆さん。あなた方が書いている(書こうとしている)小説のほうが、ミステリよりももっと神経質でデリケートです。なので、気晴らしにミステリを書いてみませんか?
そして、文フリやテキレボなどの即売会で頒布しませんか?
ミステリジャンルはサークル数が少ないので、目立ちやすいですよ。

――という、ジャンル勧誘の文章でした。
ではでは、

※①…安価で武具が買えるということは、その国(もしくは世界)の鉄鋼技術は優れているはずなのに、街並に鉄製品が全く出てこない不思議。
※②…店の看板が「文字」で書かれている場合、町や村の人々は多くが字を読めると考えられる。

映画感想
先週、シン・ゴジラを観てきた。圧倒されるくらいの情報量に、二時間全く飽きることなく楽しめた。
しかし、いくつか引っかかる点もあったので、感想がてら、そのあたりを記したいと思う。

以下、ネタをばらしてしまう記述も出てくると思うので、未見の方はお気をつけください。

まず、最初に書いたように、いち観覧者として映画はすごく楽しめた。
一級のエンターテインメントだとも思った。
そこだけは履き違えてほしくないので、改めて強調しておきます。

さて、では何に引っかかったかというと、まずゴジラの存在そのものに違和を覚えた。
もともと作中のゴジラは核放射能によって突然変異した生物であり、現実世界でもヒロシマ・ナガサキの原爆、第五福竜丸の被爆など、核の脅威がゴジラを創造させた。
2016年の現在の日本(とりわけ、東日本)で生きる私たちにとって、核の脅威を考えた時に真っ先に浮かぶのは3.11の福島原発の事故だと思う。
今、改めてゴジラを作るのであるから、当然それが念頭に置かれた作品となるのだろうと、予告編を見た時から思っていた。
結果、その予想は当たった。もしも、あの事故を無視したただの娯楽作品であったならば、唾棄すべき駄作となっていただろう。そこは満足なのだが、ただ、ゴジラの存在があまりにも直喩すぎはしないか。あまりに安直にそれと結びつきすぎてはいないか。あくまでも、ゴジラは核の脅威の暗喩であるべきではないだろうか。その思いが、上映中しこりのように胸に張り付いて離れなかった。
極論を言ってしまうと、劇中のあのクライシスはゴジラでなくても起こせたのではないか。ゴジラでなければならなかった必然性が弱く、それがゴジラの存在への違和感となったのだと思う。

あと、無茶は承知で付け加えれば、タイトルはゴジラではないほうが、楽しめた――もしくは、驚けたと思う。
はじめ、ゴジラは名前のない未知の巨大生物として登場する。見た目も、私たちが知っている二足歩行のそれではなく、トカゲやヤモリのように地を這う四足歩行の奇妙な形態である。
「これはなんだ?」というのが率直な感想だと思う。
そして、物語が進み、その未知の生き物に『ゴジラ』という名前が与えられる。その後、一度海底へとフェイドアウトしていたゴジラが再び日本に上陸するのだが、その時、はじめてゴジラは私たちの知っている形態のゴジラとなって現れる。
もし、『シン・ゴジラ』をゴジラと知らずに見ていたら、あそこで「この映画はゴジラだったのか。」と大きな衝撃を受けていただろう。その衝撃を味わってみたかった気もするが、『ゴジラ』でなければおそらく観賞していないと思うので、無茶なことを言ってると承知している。
最後、もう一点だけ、肌に合わなかった点をあげて終わりにしたいと思う。

物語後半、猛威を振るうゴジラに主人公たちは団結してゴジラと、そして世界に立ち向かうのだが、その描かれ方が、「日本はこんなものではない。」、「日本の底意地をみせてやる。」という、まるで下町の工場の職人技術をもって日本の実力を誇ろうとするドキュメンタリーのような不快感さがあった。
「日本にはこんなに素晴らしい技術があるので、まだまだ大丈夫。」という、視聴者を勘違いさせるあれだ。
一定の年代(某直木賞作家の作品を好むおじさま方)には受けるのだろうが、私は何ら感じ入るものがなかった。

と、批判的なことを書き続けたが、冒頭で述べたとおり、この映画は本当に面白かった。万人受けする作品ではないが、あらゆる意味でのオタク向けの作品であり、エヴァ世代のオタクである筆者が面白いと思わないわけがない。
エヴァがそうであったように、兎に角語りたくなる作品。それが『シン・ゴジラ』である。


選挙
どーも、本日期日前投票を済ませてまいりました、乃木口です。

さて、タイトルの通り、選挙です。
選挙権が18歳となったり、合区など、今までと違いの多い国政選挙ですが、
気の所為か、あまり盛り上がっている気がしない。
盛り上がっているという言葉が適当でないなら、熱を感じられないと言い換えた方が良いだろうか。

テレビをあまり見ないから、そう感じるのだろうか?
いや、でも以前は意識していなくても、選挙に向けての空気や情報が周囲を覆っていた気がする。
学生の頃、街宣車のアナウンスで睡眠を妨げられてイラついたのを覚えている。
(まあ、昼過ぎまで寝ている人間が悪いのだが……)
でも、今回の選挙でそうした喧しさを覚えた記憶がない。
選挙運動の方法が昔と変わったからなのか、それとも、それを自分が『喧しい』と感じなくなったのか。
どちらものような気がするが、それにしても、従来のメディアから発信される情報が減った気がする。

選挙前になると、報道番組では特集として討論会などを放送していたが、今回はあまり目にした記憶がない。
(前記した通り、テレビを見るのが減ったから、見逃しているだけかもしれないが……)

とらえ方、感じ方の問題かもしれないが、私は今回の選挙に盛り上がりの低さを感じるのだ。

盛り上がりの低さというのは、裏を返せば『関心の低さ』である。

投票者の関心が高ければ、それが善きにしろ悪しきにしろ、
選挙運動も喧しくなり、メディアも情報であふれるだろう。

では、何故今回の選挙は関心が低いのか?

一つは参院選だからではないか。
衆議院選の場合、解散というカタストロフが起きた後に行われるので、人々の関心を集めやすいが、
参議院選は3年ごとのルーチンワークのようで、祭感がないから。

もう一つは、争点の曖昧さ。
分かりやすい争点がなく、結局何を選べば良いのか分からないので、興味が失せてしまっている。
そんな気がする。

確かに、何か大きな題目があり、その是か否を決める投票は楽でいい。
でも、そうした選挙の時も決まるのはその争点だけでなく、
他の細かなものも選んでいるのを忘れてはいけない。
つい大きな選択肢に邪魔をされ、見えにくくなってしまうが、判断基準は一つではない。

翻って、今回の選挙は大きな争点がないことで、自分にとって何が大切なのかを考える機会でもあると、
私は思う。

何を選べばいいのか分からないのならば、
今の自分にとって、何が一番の問題事・関心事なのかを考えればいい。
育児なのか、介護なのか、労働なのか、はたまた憲法なのか。

それでも、選挙公約はどれもとても都合の良いことを言っているので、迷ってしまう。
『この問題については、A党が言っていることが良いと思うけど、
別の問題では、B党が言っていることが良いと思う。』
さらにはC党も加わってはもう判断のしようがない。
「すべて良し。」と言える公約や政党というのは特別な思想がない人には中々現れないと思う。

なので、自分の問題として何を一番とするかを考え、
それを解決してくれそうな候補者・政党に一票を投じればいい。

「でも、結局誰に投票しても世の中変わらないじゃん。」という声も発する人もいるだろう。
私もそれは否定しない。
でも、投票をしない人は今後どのような政治が行われようと文句の言える立場ではなくなってしまう。
だって、投票をしない=どうなっても構わない、という意味に解されても仕方ないから。

だから、とりあえず選挙には行こうよと、一般的なことを言いたい。
投票したことにより、心理的なアリバイができて、
世の中が変な方向に向かってしまった時、文句が言える。
そんな小さな理由でも構わないと、自分は思う。

全ては自分と、自分の身の回りの人のため。
関心を抱く理由なんて、それだけで十分じゃあないですかね?

衝撃
呆然。
その言葉が、その出来事を表すのに一番妥当な言葉だと思う。

先ほど、S・フェザー級の王座統一戦が行われていた。
王者は内山高志。11度の防衛を成し遂げているスーパーチャンピオン。

対する相手は、暫定王者コラレス。

前日での計量時、コラレスはリミットオーバーで再計量となる調整ミスをしていた。
なので、観戦側は気楽に見ていたと思う。少なくとも、私は内山が何ラウンドでKOするのか、
そして、次の防衛戦で具志堅用高と並ぶ13防衛を達成できるのか、
そんなことを考えながら、観戦していた。

しかし、6分後に衝撃が走った。
そして、衝撃が走り抜けた後は、ただ呆然とするしかなかった。

王者内山が負けたのだ。
しかも、たったの2ラウンドで。

1ラウンド開始から、コラレスのスピードは手も足も速く、KO率が低い割にアグレッシブだった。
だが、調整ミスで長丁場を戦うスタミナがない苦肉の作戦だと思った。

もしかしたら、実際にそうなのかもしれないが、それがコラレス側としては功を奏した。

そのスピードに内山は追いつけなかった。
1ラウンド目にもクリーンヒットをもらい、2ラウンド目には三度のダウンを奪われ、KO負けとなった。

果たして、どれだけの人がこの結果を予想していただろうか。
絶対政権を築き、誰もが負ける姿を想像だにしなかった最強の存在。

長谷川穂積の敗戦の時も、同じ印象だった。
最強の王者として君臨し、防衛記録をどこまで伸ばせるのか、そうした話題が持ち上がる中での敗戦だったと記憶している。

祇園精舎の鐘の声からはじまる一節が脳裏を過り、
世の中に絶対などないと、改めて思い知らされた。

何時、何処で、何が起きるか分からない世界。
驕りや、過信は命取りとなる。
自分の居場所を勝ち取り、守る為、人は日々一所懸命に生きなければならないのかもしれない。
私も、自分の『城』を守る為、明日からまた頑張らなければならない。

呆けた頭で、そんなことを思った。




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